親戚の家に泊まっています

 

 

親戚の人に

 

「心配になるんだから夜遅くなる時とか泊まる時は連絡しなさいね」

 

って言われると

 

「(あなたに何かあったら私が責められるって)心配になるんだから夜遅くなる時とか泊まる時は連絡しなさいね」

 

って聞こえる私はひねくれてるんでしょうか。

 

純粋に心配するなんてあるんでしょうか。

新年を迎えてさらに寒さが増した。

 

加えて酸素が濃くなったように感じる。

 

私の頭の中はいつだって酸素に満たされていて

 

今にも壊れそうだ。

 

過呼吸になった時のように

 

失神する直前のように

 

私の脳内は酸素に満たされている。

 

普通に息をしているようで

 

私の脳は酸素しか飲み込んでいない。

 

時々くる動機と不安は

 

濃すぎる酸素のせいだろうか。

 

急にこみ上げる吐き気と頭痛は

 

息をしている私への罰なのか。

 

 

さあ、眠ろう

名前が左右する関係

名前は不思議な力を持っていると思う。

 

私達は生まれた瞬間から同じ名前で呼ばれ続ける。生まれてから今に至るまで一度たりとも変わらない名前というものには、皆無意識のうちに愛着が湧いている。

 

好きな人に名前を呼ばれると嬉しいのも、自分と同じものに愛着を持っていると錯覚するからではないかと思う。そうして人は無意識のうちに自分の名前を様々な判断基準に使っている。

 

私が今回話したいのは、名前が親しくなれるかどうかの判断に使えるということである。

先日、バイト先の人(以降Tさんと呼ぶ)とのこんな出来事があった。

 

 

Tさんは年下だが私より長く働いていて、経歴的には先輩にあたる。Tさんは普段、私のことを菊池さん(仮称)と呼ぶ。普通に話す分には楽しめるし何の問題もないのだが、いきなり下の名前で呼ばれることがある。普通に話している途中で菊池(仮称)から悠さん(仮称)に変えてくるのである。ラインで二言前には菊池さん(仮称)なのにいきなり悠さん(仮称)に変えてくる。急に名前を呼ばれてキュンとしたなんて話が世の中には存在するが、大変失礼な話で、この時私は単に 気持ち悪い としか思えなかった。

 

後にバイトをしていたある日、社員さんの一人(以降Aさんと呼ぶ)と話をしているといきなり下の名前を呼ばれた。この人もたびたび急に下の名前を読んでくる人で、いつも驚かされる。しかし私の場合Aさんに呼ばれたときは、Tさんの時のような気持ち悪さは感じられず、むしろ嬉しさが滲むのだ。

 

 

「自分の中の潜在的な部分が相手を拒否している場合、下の名前を呼ばれると全く嬉しくない」

 

 

この場合、嬉しくないどころか嫌悪さえ湧いてくる場合がある。呼び方に特徴があるわけでも、甘えた声で呼ばれたわけでもないが、Tさんには気持ち悪さをAさんには嬉しさを抱いた。

 

 

よく考えてみるとTさんとの会話の中で度々「ん?」と思うことがあった。その時は深く考えなかったが、今回の出来事で、私はTさんとは合わないのだ とはっきり分かった。親しくなると下の名前で呼ぶのが一般的な日本では、下の名前を呼ばれたくない=親しくなりたくないということになる。つまり潜在的な部分が相手を拒否しているのだ。

 

「名前を呼んだ」というたった一つの事実が、知り合った人との関係を左右するサインになるなど変な話だが、感覚的なものばっかりはどうしようもない。もちろんこの感覚だけに囚われて交友関係を狭める必要は無いし、そんなことしていたら世界が狭くなってしまう。しかし親しくできそうかという判断の一つとして頭の隅に置いておいても邪魔にはならないだろう。この感覚を上手く利用したいものである。

 

嗚呼、名前を呼んで欲しい

文字の速さ


私はすごい速さで書かれる文字の音が嫌い

表現力の乏しい私には、その文字の速さを文章で表現することは出来ないが、とにかくものすごい速さで書かれるのである。

あの速い音がどうしても好きになれない。

あんなに速く書かれた文字には意味が無いような気がする。ただ書かれているだけで、文字として形があるだけで、本当の文字としての意味は何一つとして持っていないようなそんな無意味な記号に思えてしまう。書かれているうちに意味が生まれるはずなのに、意味が追いつく前に書き終えられるのだ。

私はあの速い音を聞くと焦る。落ち着かなくなってどうしていいか分からなくなる。呼吸が乱れるような苦しさがある。先を急げと言われているようで、脅されているみたいだ。

だから文字をすごい速さで書く人が苦手だ。速い文字の音で私を焦らせる人を好きになれない。

意味の無い文字をべらべらと書く人は意味の無い言葉をベラベラと話す。表面上の、形しかない言葉で傷つける。そういう人はボキャブラリーだけは豊富である。きちんと理解し知識となるまでは行かないが言葉そのものは知っているという意味でだが。私はたくさんの言葉を知らなくてもいいから、中身を大切にしたいと思う。綺麗事だろうがなんだろうが構わない。抜け殻のようにはなりたくない。

ほんの少しでもいいから私の文字には価値を持たせたい。

誰か私の心臓に開いた穴を塞いでくれ

先日友人が田舎に引っ込んだ。

 

私はこの友人ととても仲が良かったわけではないし、とても仲が悪かったわけでもない。

高校1年の時に同じクラスだった。誕生日が同じだった。同じグループにいた。

帰りは時間が合えば一緒に帰った。学校帰りに遊んだこともあった。

しかし、特別仲が良かったわけではなかった。

クラス替えが行われ教室が変わると全く話さなくなった。

 

ある日、そんな風に疎遠になってしまった友人と久々に会うことになった。一緒に夕食を食べた。

その友人は文才があり、話の内容も面白い。内容が面白いというか、物事の捉え方が他とは違っていて興味深い。

話をする中で少なくとも私は彼と話の馬が合った気がした。本当に楽しかった。

 

数日が経ち、再び彼と食事をすることになった。そのころには彼は退職の手続きを終え、田舎に引っ越す準備もほとんど終えていた。これといった別れの挨拶をするわけでもなく、また食事に行こうと約束を交わして別れた。

 

彼は東京にいた。私も東京にいた。

彼は田舎にいる。私は東京にいる。

 

文字で書くと「東京」が「田舎」に変わっただけで大きな変化はない。

しかし東京と田舎という感覚的な距離が心の中に残ってしまった。

同じ日本という小さな国にいながら、ものすごい距離を感じる。特別親しかったわけでもないのに、「彼が東京にいない」という事実が私の心臓に穴をあけている。

SNSで彼の近況を知ることはできるが全く別の世界の話のように思えてしまう。

 

ここまで書いてみて、

 

私はなぜ彼のことを書いているのだろう?

特別な親しささえなかった彼になぜここまで固執しているのだろう?

 

そうか、彼との物理的な距離を、私の脳は心の距離に変換してしまっているのか。

話の馬が合ったはずなのに、互いの存意の中に共通するものが全くなくなってしまったような、そんな気分に私の脳が自らしているのか。



答えが出た気がした。

 

 

気持ちというものは厄介である。

時に事実とは全く異なることを信じたがり、自分を暗い海の底に沈めようとする。

頭ではわかっているが気持ちがついていかないという言葉があるが、本当にそのとおりである。

私の気持ちは私のものであるが私が操縦機を握っているわけではないのだ。

考えと気持ちは別物。考えは自らコントロールし作り出したもので、気持ちはそうではない。実に厄介な代物である。

 

 

 

いつになったら私の心臓の穴は埋まるのだろうか。

早く塞いでほしい。

ことわざ=教訓、人生、優しさ


  最近大学のある講義で提出した文章にこんなことを書いた人がいた。

「ことわざは教訓ではない、ただの言葉の短縮である」

しかしこれは間違っていると私は思う。
ことわざは昔から伝えられる生活の知恵や教えなんかを短い文章で表したものであると思うからだ。

例えば 「石の上にも三年」 ということわざがある。

これは冷たい石の上にも三年座り続ければ温かくなるということを表している。つまり、我慢強く努力していれば成功するということを言っているものである。

屁理屈をいうと、この「我慢強く努力していれば成功する」という言葉をどう短くすれば「石の上にも三年」になるのか?
つまりただ言葉を短縮しただけではことわざは生まれないということである。

  ことわざとは、なんの意味も無いような表現や単純な言葉の中に一つ一つストーリーが存在していて、必ず  伝えたいこと が隠されている。
  昔、実際に体験した人がいて、それに対する一番の得策を見つけ出した人がいて、初めてことわざになるのである。そんな人の生を表した言葉をただの言葉の短縮であるというのは些か失礼ではないだろうか。先人たちの生きた時間を、皆に伝えようという心を、踏み躙り、存在しないものとして扱っていることになるのではないだろうか。

  「ことわざは━━━ただの言葉短縮である」と言った本人は深く考えることなく直感的に感じたことを言っただけなのかもしれない。だとすると直感的な言葉にどれだけの重みがあるのかということを私たちは理解する必要があるだろう。私たちのたった一つの直感が誰かの生きた証を消そうとしているかもしれない。

ことわざは教訓であり、誰かの人生であり、私たちへの優しさである。

今一度、自分の直感の重みを考えてみようと思う。

わたしのともだち

今日はこれから高校からの友達と遊びます。


  よくよく考えると私は高校時代、良くも悪くも親しくなりたい人と親しくしていた気がする。親しくなった人ではなく親しくなりたい人と親しくしていた。

  入学して名簿が近かった人がとっても雰囲気かよく、惹かれた(親しくしたい人A)。その人は同性だがある意味で一目惚れだったのだと思う。親しくしたいと思った。次の日から朝は「おはよう」に始まり、夕方は「明日ね」と会話を交わし親しくなっていった。

  これもまた1年の時。
教室でいつも楽しそうに大声で笑っている人たちがいた。その塊の中に私が親しくしたいと思う人がいた(親しくしたい人B)。初めは全く関わりもなかったその人と同じ教室で過ごしているうちに面白さに気づいた。親しくしたいと思った。その後私はその人と親しくなった。

  2年の時。クラス替えが行われ、昨年の親しくしたいと感じた人たちとは全く別の教室に入れられた。この時私はかなりショックだった。親しくしたい人と親しくしづらくなった。2年の時も3年の時もぼちぼち親しくしたい人と親しくなっていった。

  今回は1年の時の二人の話をしようと思う。

  2人とも親しくしたいと思って親しくなったのだが、Bに関してはなぜ親しくなれたのかがさっぱりわからない。すきなアーティストも服の好みも全く違うのである。しかし親しくなれた。というか、本当に親しくしたいと思っていた。特別面白くない話にも大声で笑い、気を遣って会話を面白くさせるなど、「親しくしたい」という気持ちが強かった。気を遣ってまで親しくしたかった。つまり面白いから親しくしたいのではなく、親しくしたいから面白くしていたのだ。何がなんでも親しくしたかったのだ「なぜそんなに親しくしたいのか?」「気を遣ってまで親しくするのは親しくないのではないか?」そんな疑問が聞こえてくるが、本当に親しくしたかったし、親しくしていたのである。

  Aは高校を卒業した今でも連絡を取ったり遊んだりしている。この人とは2年の時1度も口をきかないということがあったが、3年からはまた親しく出来ている。しかしその1年が大きかった。私の知っているAとは少し違ったAになっていたのである。最近のAは以前よりわがままになったように感じるのである。

例えば遊ぶ計画を立てる時、私の事情や気持ちは無視で決める。少しでも気に入らないことや嫌なことがあればすぐに態度に出す。

こんな幼稚なことはしない人だったはずなのに、私の知らない1年の間に変化していた。

以前の私が知る姿からは想像出来ない行動をとるため、Aは悪くないのではないか?私が幼稚でわがままになっただけなのではないか?と悩んだこともあった。しかし、客観的に見てみてもやはりおかしいと感じてしまうのである。そんな態度を取られて頭にくるが、やっぱり親しくしていたいと思う。なぜか親しくありたいのだ。そのために相手が態度に出しても私が普通にしていれば向こうも普通にしやすいだろうと思って何も言わなかったり、気を遣ったりしていた。

客観的に考えたらおかしい状況なのに、「親しくしたい」という気持ちだけが先走り私の中はぐちゃぐちゃだ。


親しくしたい

なぜ?趣味も何も合わないのに?あんなに自分勝手な部分があるのに?

それでも親しくしたい

なぜ?気を遣って過ごすのが本当に親しい友人か?疲れてしまうだろう?

わからないが、親しくしたい。


  どんなにひどいことを言われてもどんなに頭にきても親しくしたいと思ってしまう。

  依存と言われれば依存しているのかもしれない。私は自分が理解出来ないし、怖いとも思う。だからといって親しくしたくないとは思えないし、自分で抜け出せない結果が依存なわけであるからどうしようもないのである。

  私はこれからも親しくなった人とではなく「親しくしたい人」と親しくするのだろう。