親戚の家に泊まっています
親戚の人に
「心配になるんだから夜遅くなる時とか泊まる時は連絡しなさいね」
って言われると
「(あなたに何かあったら私が責められるって)心配になるんだから夜遅くなる時とか泊まる時は連絡しなさいね」
って聞こえる私はひねくれてるんでしょうか。
純粋に心配するなんてあるんでしょうか。
名前が左右する関係
名前は不思議な力を持っていると思う。
私達は生まれた瞬間から同じ名前で呼ばれ続ける。生まれてから今に至るまで一度たりとも変わらない名前というものには、皆無意識のうちに愛着が湧いている。
好きな人に名前を呼ばれると嬉しいのも、自分と同じものに愛着を持っていると錯覚するからではないかと思う。そうして人は無意識のうちに自分の名前を様々な判断基準に使っている。
私が今回話したいのは、名前が親しくなれるかどうかの判断に使えるということである。
先日、バイト先の人(以降Tさんと呼ぶ)とのこんな出来事があった。
Tさんは年下だが私より長く働いていて、経歴的には先輩にあたる。Tさんは普段、私のことを菊池さん(仮称)と呼ぶ。普通に話す分には楽しめるし何の問題もないのだが、いきなり下の名前で呼ばれることがある。普通に話している途中で菊池(仮称)から悠さん(仮称)に変えてくるのである。ラインで二言前には菊池さん(仮称)なのにいきなり悠さん(仮称)に変えてくる。急に名前を呼ばれてキュンとしたなんて話が世の中には存在するが、大変失礼な話で、この時私は単に 気持ち悪い としか思えなかった。
後にバイトをしていたある日、社員さんの一人(以降Aさんと呼ぶ)と話をしているといきなり下の名前を呼ばれた。この人もたびたび急に下の名前を読んでくる人で、いつも驚かされる。しかし私の場合Aさんに呼ばれたときは、Tさんの時のような気持ち悪さは感じられず、むしろ嬉しさが滲むのだ。
「自分の中の潜在的な部分が相手を拒否している場合、下の名前を呼ばれると全く嬉しくない」
この場合、嬉しくないどころか嫌悪さえ湧いてくる場合がある。呼び方に特徴があるわけでも、甘えた声で呼ばれたわけでもないが、Tさんには気持ち悪さをAさんには嬉しさを抱いた。
よく考えてみるとTさんとの会話の中で度々「ん?」と思うことがあった。その時は深く考えなかったが、今回の出来事で、私はTさんとは合わないのだ とはっきり分かった。親しくなると下の名前で呼ぶのが一般的な日本では、下の名前を呼ばれたくない=親しくなりたくないということになる。つまり潜在的な部分が相手を拒否しているのだ。
「名前を呼んだ」というたった一つの事実が、知り合った人との関係を左右するサインになるなど変な話だが、感覚的なものばっかりはどうしようもない。もちろんこの感覚だけに囚われて交友関係を狭める必要は無いし、そんなことしていたら世界が狭くなってしまう。しかし親しくできそうかという判断の一つとして頭の隅に置いておいても邪魔にはならないだろう。この感覚を上手く利用したいものである。
嗚呼、名前を呼んで欲しい
文字の速さ
誰か私の心臓に開いた穴を塞いでくれ
先日友人が田舎に引っ込んだ。
私はこの友人ととても仲が良かったわけではないし、とても仲が悪かったわけでもない。
高校1年の時に同じクラスだった。誕生日が同じだった。同じグループにいた。
帰りは時間が合えば一緒に帰った。学校帰りに遊んだこともあった。
しかし、特別仲が良かったわけではなかった。
クラス替えが行われ教室が変わると全く話さなくなった。
ある日、そんな風に疎遠になってしまった友人と久々に会うことになった。一緒に夕食を食べた。
その友人は文才があり、話の内容も面白い。内容が面白いというか、物事の捉え方が他とは違っていて興味深い。
話をする中で少なくとも私は彼と話の馬が合った気がした。本当に楽しかった。
数日が経ち、再び彼と食事をすることになった。そのころには彼は退職の手続きを終え、田舎に引っ越す準備もほとんど終えていた。これといった別れの挨拶をするわけでもなく、また食事に行こうと約束を交わして別れた。
彼は東京にいた。私も東京にいた。
彼は田舎にいる。私は東京にいる。
文字で書くと「東京」が「田舎」に変わっただけで大きな変化はない。
しかし東京と田舎という感覚的な距離が心の中に残ってしまった。
同じ日本という小さな国にいながら、ものすごい距離を感じる。特別親しかったわけでもないのに、「彼が東京にいない」という事実が私の心臓に穴をあけている。
SNSで彼の近況を知ることはできるが全く別の世界の話のように思えてしまう。
ここまで書いてみて、
私はなぜ彼のことを書いているのだろう?
特別な親しささえなかった彼になぜここまで固執しているのだろう?
そうか、彼との物理的な距離を、私の脳は心の距離に変換してしまっているのか。
話の馬が合ったはずなのに、互いの存意の中に共通するものが全くなくなってしまったような、そんな気分に私の脳が自らしているのか。
答えが出た気がした。
気持ちというものは厄介である。
時に事実とは全く異なることを信じたがり、自分を暗い海の底に沈めようとする。
頭ではわかっているが気持ちがついていかないという言葉があるが、本当にそのとおりである。
私の気持ちは私のものであるが私が操縦機を握っているわけではないのだ。
考えと気持ちは別物。考えは自らコントロールし作り出したもので、気持ちはそうではない。実に厄介な代物である。
いつになったら私の心臓の穴は埋まるのだろうか。
早く塞いでほしい。